vol.1 2023年5月8日OPEN ~ここまでの道のり~前編
こんにちわ。
5月8日を持ちまして、Mieruレディースクリニックは渋谷に誕生することができました。
思えば、父が脳梗塞で倒れたことが始まりです。
父は、産婦人科医で、地域に根付く医療に貢献し、たくさんの赤ちゃんを取り上げてきました。
そんな父は、大の酒好きで、飲みに行くのが好きでした。その日もいつものように飲んで、遅くに帰ってきてお風呂に入っていた時のことです。バーンとものすごい音がしたと母は言います。その爆発でも起きたような物音にただ事ではないと母はすぐにお風呂場にかけつけたようです。
父がうなだれるように倒れており、すぐに救急車を呼んだそうです。突然の出来事でした。
アテローム性脳梗塞の診断ですぐに治療が開始されました。背景には糖尿病、動脈硬化、腎機能不全があり、いつ倒れてもおかしくない状況だったと思います。それが、お酒を飲んでおり、血管内脱水もあり、身体が温まることで血管が弛緩することでの血圧低下等、悪い状況が重なっての発症です。
入院してすぐに私もかけつけましたが、父はせん妄状態であり、私のこともわかっているのかどうか定かではありませんでした。
不幸かとも思う人もいますでしょうか、でもそうではありません。医療の進歩はやはりすごい。この状況で下半身麻痺ほどで生きているのは奇跡と言ってもいいでしょう。母の対応は迅速で非常に素晴らしかったと思いますし、脳梗塞の治療を瞬時におこなってもらえる病院に運んでもらえたのも本当に良かった。とにかく父は生きていた。
それからはリハビリの生活が始まり、3か月間父はリハビリセンターにこもりっきりでした。このままでは認知機能の方が一気に加速して私たちのことを忘れてしまうのではないかと思うほどでした。面会もほとんど許されず、父が孤立してしまうのではないかと少し心配もしました。このような待遇になったのももちろんコロナの影響です。コロナによる社会現象は全くもって負の行動変容であったと思いますが、人間とは大衆で形成されるものであるから一概に何が正しいと言えないのがまた難しいところであると考えさせられます。
それはさておき、8月にリハビリの成果のおかげでセンターを退院することができ、バリアフリーを整えた実家にやっと父は戻ってきました。
さて、ここで問題となるのは、父の経営していた病院です。脳梗塞を発症し、片麻痺も残る父に仕事を続けることは不可能です。19床の産科病棟のある診療所は、昭和に作られた鉄筋コンクリートで、患者のいない病棟はさながら冷たい洞窟のようでした。
私は、昭和61年の生まれで、父の経営した病院で生まれ、そして育ちました。
思い入れがないわけがありません。
私はその時、医者7年目。
なぜ医者7年目なのかというと、私は私立文系大学を卒業後、医学部を再受験しました。
父と同じ、産婦人科医になるために医学部へ入ったわけで、その分、遅めの医者スタートというわけです。
とにかく、医者7年目というと、産婦人科専門医もとったばかりでそんなに医者経歴が長いとは言えません。
父の病院を継ぐにはまだ早い。
そのため、病院は手放すことも視野にありました。
後編へ続く